石の壁について

数学というと、「難しい」「役に立たない」「無味乾燥」というイメージをもたれることが多いようにおもいます。

その一方で、数学に面白さを見出している人たちは、「役に立つ」「面白い」問題を紹介することによって、「数学って役に立つんだよ」「面白いでしょ?」とそれに対して反論を試みているようです。

僕はここでそれらに対して賛成や反論をするつもりはありません。

僕がここで試みたいのは自分が数学を学ぶことについて考えている像をはっきりと明確に捉えることです。 

今、自分が数学に対して漠然と思っていることは

  • 証明を追うのが楽しく、それを運用できるのがうれしい。
  • 高校数学までの概念を公理化して、そこから新たに議論をスタートさせることが面白い(絶対値→距離空間位相空間など)
  • 何かについて悩み続けているのが、なんとなく楽しい。

なのですがこれをうまく言葉として表現することは難しく、大抵は幼児が発する喃語のように意味のない言葉になりがちでした。

しかしドストエフスキーの「地下室の手記」を読むと、それがうまく表現されていたので、ここに紹介しようともいます。

 

それよりもぼくは、例の微妙極まる快楽を解することのない神経の野太い連中のことを、冷静に話し続けることにしたい。これらの諸君は、たとえばある場合にはなるほど牝牛そこのけに、喉いっぱい吼えたてようもしようし、それによって最高の栄誉に輝きもしようが、前にも言ったように、不可能事とみればたちまち手を上げてしまうのである。

不可能事ーーーすなわち石の壁というわけだ。

どんな石の壁といわれるのか?なに、知れたこと、自然法則とか、自然科学の結論とか、数学とかである。

我々は石の壁(すなわち数学の2*2=4など)がでてくれば、認めるしかないと思いがちです。我々が何を思おうと、自然は我々にお伺いもたてないし、我々の希望や願いに関係なくそこにあるもの。そしてその結果も認めるべきなんです。壁なのだから、と。

 

これはしたり、いったいその自然の法則

だの数学だのが、ぼくになんの関わりがあるというのか?なぜか知らぬが、ぼくにはそんな法則だの二二が四だのは、さっぱりときにくわないというのに。むろん、ぼくにはその壁を額でぶち抜くことはできないだろう。もともと僕にはぶちぬくだけの力もないのだから。しかし、だからといって、ぼくはそこに石の壁があり、僕には力がたりない、というそれだけの理由から、この壁と妥協したりすることはしないつもりだ。

それではまるで、そういう石の壁が本当に安らぎであり、本当にそこに平和の保証めいたものが含まれてでもいるようではないか。しかもその理由たるや、それが二二が四であるというだけのことにすぎないのだ。ああ、なんという馬鹿馬鹿しさだ。それくらいなら、いっそ不可能ごとも、石の壁も、いっさいを理解し、いっさいを意識してやるほうが、よほど気が利いている。それで、もし妥協するのが気に食わなければ、そんな不可能ごとや石の壁のどれひとつとも妥協しない。逃れようもない論理のくさりをぎりぎいりまで辿っていって、その石の壁とやらのことでも、やはり一半の責任は自分にあるとかいう永遠のテーマについて、もっとも忌まわしい結論にまで到達してやるのだ。もっとも、自分に責任など何もないことは、またしても明々白々の事実なのだが。

この小説は19世紀中頃に書かれたものですが、科学界にあった厳密化の流れを汲んでいるんだろうとおもいます。εδ論法創始者コーシーや自然数の公理ペアノもこの時期の人たちです。ヨーロッパの知識人のなかでもこういった激戦があったんでしょう。

 

そうして哲学者を含め、科学者たちは以下のように壁を叩くのです。

で、そうときまったら、あとは黙々とごまめの歯ぎしりでもしながら、惰性に身を任せて官能にしびれ、あだな物思いにふけっていいのだ。第一、憎悪をぶちまけようにも、その相手がいないときている。いや本当に、対象がない。もしかしたら、永久にそんなものは出てこないのかも知らん。(中略)

それにしても、こうわけがわからず、インチキだらけのくせに、痛むことはやはり痛みやがるな。いや、わけがわからないほど、痛みはますますひどくなるぞ。

 石の壁を叩くことには、痛みを伴います。なんせ、石なのだから。しかし、憎しみをぶつけようにも相手は自然、そんなものは出てこない。僕たちにできることは気休めに自分自身を殴りつづけるか、血がでても壁を殴りつづけることだけ。そして、周りからは嘲笑される。しかし、これこそが快楽への始まりで、それが絶頂にも達することもある。

 

諸君、いつか折があったら歯痛に苦しむ19世紀の教養ある人間のうめき声に是非とも耳を傾けてもらいたい。それも、痛みだしてから2日目か3日目、つまり最初にただ歯が痛いからといって呻いていたのとはだいぶ違ったうめき方をするようになった時がいい。進歩とヨーロッパ文明の洗礼を受けた人間、当節流行の言葉で言えば、<<土壌と国民的根源を振り捨てた人間>>のうめき方になったときである。

かれのうめき声は、なんとも醜悪な、あさましいほど意固地な調子になって、昼も夜もぶっ通しにつづく。しかも彼自身が、そんなに呻いたところでなんの利益になるわけでもなく、自分をも他人をもいたずらにくたびれさせて、いらただせるだけなのを、承知しているのである。ところが、実を言うと、官能のよろこびは、こうした各種様々な自意識や屈辱のなかにこそ含まれているのだ。

 この<<土壌と国民的根源を振り捨てた人間>>とは、キリスト教的な国民的根源である神を捨てた人間のことでしょう。これまた19世紀に生まれたニーチェのいう通り神は死んだのです。その人たちもまた壁や自らを殴り続け、屈辱を味わったんでしょう。

 

僕は自分に自問せずにはいられなくなりました。ただただ、難問になやみ分からないと嘆いていただけではないのか、と。過去の科学者と同じく自身を殴り、壁を殴り続け、破壊しそのなかから何かを見出したのか、と。

 

地下室の手記 (新潮文庫)

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